ここ半年ほどゆっくり書く時間がとれず、すっかり遅くなってしまいました。
この記事→言葉のことの続きです。 「ドイツ語を話す時、メンタリティーに違和感を感じる」ことについてですが・・・ 以前娘が通っていた幼稚園には、偶然ドイツ語の先生やドイツ語が話せるママ友がいました。 お互い富山では使う機会がないので、忘れないためにもたまにはドイツ語で会話しましょうね!と言いながら・・・なかなか実現しないまま卒園。 なぜか。そもそも、「富山」や「幼稚園」という背景では、うまく言葉が出てこないのです。 ドイツ語圏での生活から離れてかなり経っているせいもありますが、ついさっきまで富山弁で子供に、「○○ちゃん、ほら、気ぃ付けられー!」と言っていた口で突然ドイツ語の会話を始めることは、意外と至難の業。(私だけでしょうか?) 言いようのない照れとギャップを感じてしまうというか・・・同じ自分でも、やはりオーストリア在住時と今とではキャラが違うため、まずそこから切り替えないとしっくりこないのです。 (ちなみにどんなキャラだったのかというと、自分で思うに、当時は今より理屈っぽく少々攻撃的であった気がします。これは言葉そのものが持つ文法上の性質なども思考回路に関係していると思われます。とはいえ、もちろん向こうの人が皆理屈っぽいわけではありません。) さて、昨夏ウィーンを訪れた際、この言葉とメンタリティーに関してある確信に至りました。 ドイツ語圏から離れてちょうど10年目、あれもこれも通訳しろという、うるさい家族を2名連れての旅です。 「私は音楽を勉強していたのであり、語学留学ではなかった」とクギを刺しつつも、まあ現地に入れば大丈夫だろうと思っていました。 しかし大丈夫ではなかった・・。ウィーンに着いた翌日、恩師を交えて友人家族らと食事をした時、話したいことは山ほどあるのに言葉がうまく出てきません。勢いよく話し始めても、すぐに「えーと」「あー何だっけ?」と日本語で言ってしまう有様です。通訳する余裕などほとんどゼロ。なにせ頭の回転テンポが悪い。 気心知れたメンバーなのでそんな状態でも会話は弾みましたが、10年経つとこんなに忘れてしまうものなのか、と内心落ち込みました。 ・・ところが、その後すぐに来ました。突然パチン!とスイッチが入る瞬間が。 きっかけは、滞在しているアパートに戻り、買い出しに近所のスーパーへ行ったときのこと。 元々住んでいたアパートなのと以前よく利用していたスーパーだったこともあるのでしょうが、今もそこに住んでいる感覚に陥った瞬間、何かがワーッと戻ってきたのです。 10年間、使うことはおろか思い出すことすらなかった言葉が頭の中を駆け巡り始めました。 ふと手に取った量り売り野菜とともに封印が解け、当時の思考回路と言葉が戻ったのですから、人間の脳とは不思議なものです。 そう、さっきまでは「富山弁のお母さん」のままだったから、ドイツ語が出てこなかったんだ!と、料理をしながら偉そうに家族にあれこれ説明していた私は、明らかにいつもと違うテンションだったはずです。 その後は現地の人々との会話も驚くほどスムーズになりました。 (さすがに難しいテーマになると辞書片手でしたが・・)むしろ以前よりも、いろんなことが理解でき、分かり合えるではありませんか。 それは気のせいなのか、歳を重ねて図々しくなってそう感じただけなのか、よくわかりません。 一つ言えるのは、学生の頃よりものの見方が柔軟になったことは関係している気がします。頭の中が凝り固まっていると、自分の思考回路に沿った言葉しか心に入って来ないので・・。 ともかく、言葉は単語の量に比例するような単純なものではなく、お料理や音楽同様、何か人間の経験や記憶、また五感に直結しているものであると、強く肌で感じました。 できることなら、これからは過去の記憶とのセットではなく、現在進行形で発展するのが理想的。 そのためには、やはり往復しながら交流を続け、音楽同様言葉も新しい発見を積み重ねるしかないのでしょうね。 そして、年齢相応の表現を身に付けられるといいのだけれど・・。 (それは日本語でも同じですね(^_^;))
by mi-maruyama
| 2013-02-01 13:35
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